日付を確認して問診票と誓約書に署名してから、検便容器と受診費用の封入を終え、工事で通行止の道路を国道まで迂回して検診センターの駐車場に車を入れたのは受付締切まで際どい時間でした。慌てて玄関から階段を上って受付の行列を見ると、自分がマスクをしていないことに気が付き駐車場まで取りに戻りました。もう一度、カウンターで受け付けしてもらい、まず健康保険証が必要とのことでしたが準備していなくて、マイナンバーカードでも差し支えない…というようなニュアンスで何とか受付手続が進みました。ここ何年か同じ病院で定期健康診断を受診していて何となく慣れたような気がしていますが、先払いの受診料が機械化されて事後清算になっていたり、釣銭の心配がいらないカードでの対応が進んでいたり、受診の不安と物珍しさを混ぜ合わせて最終グループで検査を受けることになりました。先ずは検尿から、食事も水分摂取も制限されているのでタイミングよくいくかどうか、余りたっぷりでも良くないかと考えたり、まあ、ここは無事に通過しました。次からが最終グループのゆとりで、ゆっくりと時間をおいてからの血圧測定は気分も落ち着き普段より数値が低く出たようです。その後はちょっと苦手の血液検査、今年の採血は右腕から、体を横にして針を入れてもらい、痛みも無く痕も残らず上手に終わりました。今回は検査項目が少し多くなっていて、視力聴力や肺活量など幾つもの検査を受けているうちに自分の順番が殆ど最後だと思うと気が急いてしまい、これは検査が遅れたのでなく前日の夕食時間が遅かったのでカメラを吞む時間も遅らせたのだろうと考えをまとめながら落ち着いた時間を過ごすことができました。触診や胸のレントゲンから腹部の超音波、そして、最後は胃の検査で、いつも大変なところです。もともと、バリウムを飲んでエックス線検査を受けていたところ、ある年は検査後に座って居られないほどの下痢状態でトイレに籠りきりになり、ある年は腹にセメントを流し込んだみたいな便秘状態が続き、そのうえ、精密検査が必要とされて胃カメラで再検査することが多くなり、これなら最初から胃カメラを吞んだ方が一度で済むだろうという結論でした。そのころの胃カメラは、今と比べて酷いものという印象しかありません。とにかく、物理的に今よりずっと太いチューブを使っていたと記憶しています。さらに、それを操る技師やスタッフの熟練度も十分ではなく、健診より治療に向けた意識が強かったかも知れません。初体験は仕事場に近い公立病院で、病棟の患者さんに混じって順番を待ちながら説明を受けるうち、眼鏡を外して喉に薬剤を入れて天井を向いた後から「注意書きをよく読んで」と言われるような流れで、ぼんやり不安な気分のまま悶えながら自分の胃の画像を眺めていたような覚えがあります。この頃と比べると今回は飛躍的に楽で、足を押さえつけられることも、手を握ってもらうこともなく、無事に終了しました。ドクターから幾つかチェックとアドバイスを受け、全ての検査結果は3週間後に通知されるとのことなので、それまで暫くの期間は保留状態で過ごすことになります。
年度末の定期健康診断
日付を確認して問診票と誓約書に署名してから、検便容器と受診費用の封入を終え、工事で通行止の道路を国道まで迂回して検診センターの駐車場に車を入れたのは受付締切まで際どい時間でした。慌てて玄関から階段を上って受付の行列を見ると、自分がマスクをしていないことに気が付き駐車場まで取りに戻りました。もう一度、カウンターで受け付けしてもらい、まず健康保険証が必要とのことでしたが準備していなくて、マイナンバーカードでも差し支えない…というようなニュアンスで何とか受付手続が進みました。ここ何年か同じ病院で定期健康診断を受診していて何となく慣れたような気がしていますが、先払いの受診料が機械化されて事後清算になっていたり、釣銭の心配がいらないカードでの対応が進んでいたり、受診の不安と物珍しさを混ぜ合わせて最終グループで検査を受けることになりました。先ずは検尿から、食事も水分摂取も制限されているのでタイミングよくいくかどうか、余りたっぷりでも良くないかと考えたり、まあ、ここは無事に通過しました。次からが最終グループのゆとりで、ゆっくりと時間をおいてからの血圧測定は気分も落ち着き普段より数値が低く出たようです。その後はちょっと苦手の血液検査、今年の採血は右腕から、体を横にして針を入れてもらい、痛みも無く痕も残らず上手に終わりました。今回は検査項目が少し多くなっていて、視力聴力や肺活量など幾つもの検査を受けているうちに自分の順番が殆ど最後だと思うと気が急いてしまい、これは検査が遅れたのでなく前日の夕食時間が遅かったのでカメラを吞む時間も遅らせたのだろうと考えをまとめながら落ち着いた時間を過ごすことができました。触診や胸のレントゲンから腹部の超音波、そして、最後は胃の検査で、いつも大変なところです。もともと、バリウムを飲んでエックス線検査を受けていたところ、ある年は検査後に座って居られないほどの下痢状態でトイレに籠りきりになり、ある年は腹にセメントを流し込んだみたいな便秘状態が続き、そのうえ、精密検査が必要とされて胃カメラで再検査することが多くなり、これなら最初から胃カメラを吞んだ方が一度で済むだろうという結論でした。そのころの胃カメラは、今と比べて酷いものという印象しかありません。とにかく、物理的に今よりずっと太いチューブを使っていたと記憶しています。さらに、それを操る技師やスタッフの熟練度も十分ではなく、健診より治療に向けた意識が強かったかも知れません。初体験は仕事場に近い公立病院で、病棟の患者さんに混じって順番を待ちながら説明を受けるうち、眼鏡を外して喉に薬剤を入れて天井を向いた後から「注意書きをよく読んで」と言われるような流れで、ぼんやり不安な気分のまま悶えながら自分の胃の画像を眺めていたような覚えがあります。この頃と比べると今回は飛躍的に楽で、足を押さえつけられることも、手を握ってもらうこともなく、無事に終了しました。ドクターから幾つかチェックとアドバイスを受け、全ての検査結果は3週間後に通知されるとのことなので、それまで暫くの期間は保留状態で過ごすことになります。
posted by 丹保社労士事務所 at 2025年03月30日
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イノシシのリベンジ
カモシカ!と声に出したら、「さっきからイノシシと言ってるだろ」と笑われましたが、雪崩の痕の谷の斜面を登るのはカモシカだけではなかったのです。この日、双眼鏡の先に見えたのはイノシシばかり6頭で、3頭ずつに分かれて少し緩んだ雪の中を歩いていました。白山麓一里野スキー場を通り抜けた先のブナオ山の観察小屋から見ると、谷越しの斜面にニホンカモシカやニホンザル、テンやキツネや時期によってはツキノワグマやニホンジカ、空にはイヌワシも現れるということで、積雪地域では生息できないと思い込んでいたイノシシもちゃんとラインナップされていました。いわゆる暖冬なのか、例年の山間地なら日中でも氷点下になるのが当たり前のバレンタインデー、スキー場までの道路は除雪が行き届き、その先の林道も気温はプラスで路面が凍結するほどのことなく雪の壁の間を走って小屋の近くまで辿り着きました。車を降りて歩く斜面の雪も緩み、振り向いて少し重心がずれたりするとゴム長がズブズブと雪に沈むような日でした。足の短いイノシシが積雪地に棲息しないというのは雪から足が抜けなくなるこんな経験をすると妙に説得力があります。しかし、イノシシはもとから土を掘るのが得意で、雪の中を進むときはラッセルして道をつくれば胴が雪に支えて立ち往生することは無いようです。根拠は不明ながらイノシシの棲息域は北上していて、空白域と思われていた北陸地方や東北地方での棲息が確認されています。西日本だけという印象の強いイノシシも時代によって住み心地が違うのか、一説では、東北地方では明治以前には棲息が確認されていたイノシシが明治になってから絶滅したともいわれています。それなら、イノシシの復活ということになります。豚肉を食べる習慣との関連は分かりませんが、人間の活動とも関連するのかも知れません。平地では害獣とされ、里山の田畑は防護フェンスで囲われることも珍しくない時代、鼻の利くイノシシは地中の筍を掘り当て、水を止めた収穫前の水田をヌタ場に変えて稲を台なしにし、本当かどうか、酷い臭いを残した後は暫らく作物もできなくなると言われます。イノシシ退治と言うことなのか、ひと頃よりは捕獲も進み、ジビエ料理として調理も研究されて、人間との棲み分けのバランスも見極めができそうです。ツキノワグマもニホンカモシカも、市街地に降りて来るのが珍しくない時代、次にこの谷の向こうに何が見えるのか、期待もあり不安もあります。
posted by 丹保社労士事務所 at 2025年03月01日
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能登の地震から一年
元旦の午後、もう一年前のこと、事務所で年賀状を整理していて大きな揺れが来ました。誰もが言う「ウチは大丈夫」という声が遠い昔の出来事の様に思ってしまうのは、震災のあと、秋になって能登に豪雨があったからかも知れません。大変な事態で誰も大丈夫な訳がないのに、周りがもっと大変ななかでの気遣いもあるのか、電話がつながり話しができることを大丈夫と言ったのかも知れません。そんな気持ちがあるうちに何かできることがないかと思います。今のところ、雪の少ない冬です。被災地では人口が激減し、幹線道路は通行を遮断してでも除雪する計画ながら、交通量の少ない路線では除雪が困難との見通しです。このまま雪が少ないなら、少しずつでも元に戻せるような気がします。震災の二月ほど前、奥能登芸術祭の催しで周った地域は、地元の人でも普段は用事のない山間地も多く、道が細くて前の地震でも被害を受けていました。でも、住み続ける人はいました。何十年にも亘り多くの人を送り出した地域に残り、そこに住み続ける人はいました。今なら、まだ、出来ることはあるように思います。
昨年の秋に、社会保険労務士として何かできないかとの気持ちもあって、士業の合同相談会の相談員として珠洲まで出向きました。限られた時間、多くの方々が会場までお越しになりました。ただ、相談の内容には片寄りが有り、不動産や住宅に関する事案が多かったようで、事業再開を目指して従業員を採用するような社労士の案件でも、課題となるのは従業員の住居の確保ができず募集を進められない実態です。一度に全てを求めるのは無理でも、住宅も、仕事も、学校も、家族も、何か一つでは成り立たず、一つずつでなく少しずつでも揃うことが前進なのかと思います。そう考えると、邪魔にさえならないなら、能登に足を踏み入れ能登の顔を見ることも意味があるようです。もとから温泉旅館で豪遊するようなことは私のスタイルではないので、能登の地で再開したお店で食事したり買い物したりできるなら、能登へ行くだけでも何かの価値があるだろうと考えるようになりました。行政の旅行割引は無くなって、むしろこれからが地味に本番だと思います。賛同があればですが、私たち社労士の仲間で能登ツアー実施という考えが浮かびました。旅行会社に相談してみたら、のと鉄道・輪島プラン、七尾・能登島プラン、能登空港・宇出津プラン、の三案が提示され、食事も充実した感じでどれも魅力的です。予算が固まらず、見積額も未確定ながら、私たちにできること、能登で事業を再開した人達が仕事しているところを見せてもらうこと、自分たちの業務とは別にしても能登まで行ってみること、その意義はあると考えます。
posted by 丹保社労士事務所 at 2025年02月11日
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ビジネスと人権への取り組み
新しい年は「ビジネスと人権」に取り組むことにします。「ビジネス」と「人権」という二つのことでなく「ビジネスと人権」という一つの概念として、BHR(Business and Human Rights)と略され、ILOでは国家と企業と救済の3つの柱を挙げて企業にも行動を求めています。私達には教科書などで馴染みのある、フランス革命の自由平等を礎とする人権宣言や統治機構や日本国憲法を構成する人権宣言とは別の機能を持ち、多国籍企業を介したビジネスのサプライチェーンから企業の人権救済措置を実現しようとするものです。具体的な人権リスクとして差別やハラスメントそして児童労働や強制労働などが挙げられ、企業が自らの事業活動を通じて人権に負の影響を及ぼし助長することを回避軽減すべきことが求められます。経済のグローバル化に伴い、国境を越えた環境汚染や強制労働などの人権侵害への対応が企業の社会的責任として要請されています。大企業にとっては当たり前でも、小規模企業にとってサプライチェーンの末端まで見通すのは大変なことです。ウイグルでの児童労働や強制労働あるいは日本での人身取引が問題とされ、自国の法律を遵守していても国際基準からは是正が求められたり、サプライチェーンの遥か先の問題に改善を求められたり、取引関係により企業の存続がかかるほど大きな課題になります。既に国連では「ビジネスと人権に関する指導原則」として枠組が形成されており、企業が直接の当事者として関わる人権リスクのみならず、第三者を通じたサプライチェーン上の人権リスクにまで企業が責任を負うことが明記されています。企業の人権配慮が国際的な枠組みで規定されているなか、日本は人権に関する国際条約の一部しか批准していないため、企業がこの指導原則による責任を果たすには、日本の法令遵守に加えて「国際的な人権基準」に基づいたリスク対応をするより有りません。また、広くSDG‘sが認知されるに伴い人権や環境と経済成長の両立が企業経営の前提となり、企業にとっての人権問題はCSRの一環でなく、企業価値の維持・向上のために取り組むべき重要な経営課題として捉えられています。実際に大手企業は人権方針や調達方針を策定してサプライヤーに人権配慮を求める動きが有り、その対応が株価や取引に影響すると考えると、企業としての人権対応は経営戦略として重大なリスクとなりチャンスともなります。求められるのは「強制労働禁止」「児童労働禁止」「差別の撤退」「結社の自由と団体交渉権」の4点であり、企業が果たすべき人権尊重責任への具体的な取り組みプロセスを「人権デューデリジェンス」と呼んで、「人権方針」を策定して「影響評価」を行い、侵害には「是正措置」をとり、継続的な「モニタリング」を経て取り組みを「情報開示」したうえ、「苦情処理」メカニズムを整備するものとされます。「人権方針」策定にあたり、企業トップを含む経営陣が検討し承認、専門的知見を参照して作成、関係者に向けた人権尊重の期待を明記、取引先等への公開と周知、企業全体への人権方針の反映、がコミットメントの要件とされています。そして、ステークホルダーとの対話の中で、事業活動による人権侵害リスクを特定評価して防止軽減を図り人権尊重の取り組みの実効性を評価して情報開示するプロセスが人権デューデリジェンスであり、リスクの深刻度の高いものから着実に実行することになります。これは、継続的に企業が人権を尊重する姿勢を見せる取り組みとなり、適切で効果的な対応につながることになります。指導原則自体は法的拘束力のないソフトローですが、欧米では人権に関する取り組みの法制化が相次ぎ、顧客が法規制の適用をうけると自社に情報提供を求めたり対応を求めたりということが見込まれます。遅れた取り組みにはなりますが、私どもの事務所としても「ビジネスと人権」についての対応を準備することにしました。
posted by 丹保社労士事務所 at 2024年12月27日
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自動遠心クラッチにロータリーギア
金沢から金石に向かう電車が走っていたころ、まだ沿線には運転免許試験場があって、「観音堂に行く」というと免許証ということになっていました。運転免許試験場のそばでは代書屋さんが棚を拡げて、手際よく申請書を作ってくれた時代です。私が初めて運転免許証をもらったのはここの試験場でした。高校生になって最初の年、同じ生まれ月の同級生と一緒に原付の試験を受けに行ったのです。筆記試験だけで実地はなく、初めての試験に合格して運転免許は確実に取得できました。その後、自動二輪や普通自動車の運転免許を取得して原付免許が実質的に他の免許証に吸収されても、私の運転免許証には“原付”の表記がずっと残されたままになっています。とにかく、免許を取得すると運転したくなり、でも、父親の持っていたような単車には乗れず、少しは単車っぽい中古の原付がないかと探しました。原付免許で運転できるのは排気量50cc以下の原動機付自転車に限定され、選ぶほど多くの車がありません。家の近所の自転車屋さんの紹介で、ホンダのSL50というアップマフラーの4ストを手に入れて3年間乗りました。いま思うと、カブのエンジンを載せていたような気がします。驚くほどよく回り、燃費が良かったことを覚えています。誰もヘルメットを着ける人がいない時代、信号機が珍しい田舎道で速度超過は難しくありません。進学校の生徒ということでその場の注意だけで終わったり、交差点でワシを睨んだと言われて一旦停止違反になったり、無事とは言えないものの大事には至らず、初めての原付を進学で手放すまで大事な足になりました。来年から、この原動機付自転車という規格が大きく変更されるようです。技術的にもコスト面でも50cc以下のエンジンでは環境負荷を軽減できず、よりサイズの大きい125cc以下に規格を拡大することで排ガス規制をクリアできるということで、もうしばらくすると50ccのエンジンが消えてしまうのです。こうなると、最後にもう一度だけ乗ってみたくもなってきます。税抜き20万円強から手に入るカブには、ファイナルエディションが登場し、くまモンバージョンにハローキティまで用意されて、持っているだけでも面白そうに見えてきました。ただし、カブ乗りには当たり前でも、自動遠心クラッチにロータリーギアという変速機はスクーター並みに抵抗が有ります。ハイテクというか、高度技能というか、独特のガラパゴス的テクニックを身に着けるまでが年季です。これだからカブなのですが、自動でなくてもクラッチレバーできちんと切ればいいし、トップギアから一気にニュートラルにしなくても一つずつ落とせばいいし、片手で運転する必要もないし、…なんて面倒なものなのだろうと思ってしまうのです。もちろん、これに慣れるのが楽しみなので、50ccにこだわらず、110ccか125ccクラスのカブでも十分に面白く遊べます。これからも高速道路は走らせてもらえないはずなので、気候のいい時期には時間を作って下道を抜けながら、軽装のままレンジファインダーの写真機を首に吊るし、町の食堂で一服したらスーパーでお土産を探し、風が冷たくなったらモッズコートと前掛で防寒し、近場でカブを転がしながらコーヒーを沸かすような暮らしをしてみたいものです。
posted by 丹保社労士事務所 at 2024年12月01日
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いま珠洲で暮らすには
大雨のあと、はじめて珠洲まで走りました。土曜日の相談会で、正月の地震と9月の豪雨の影響を前提とした士業が合同して実施する相談会の相談員として参加するのが目的です。私の事務所は休みなので朝から出る必要はなく、ガソリンをたっぷりと入れ飲み物も多めに持って、普段より少し早めに家を出ました。思いのほか車が多く、金沢港クルーズターミナルの駐車場には大型観光バスが何十台も並び、もう少し道を調べておくべきだったと思いながらノロノロと石油基地の埠頭に差し掛かりました。埠頭に向かう道は通行規制され、工場の先に新しいビルが建ったかのように大きな船が見えてきました。大きな旅客船だとクルーズターミナルには接岸できないのか、陸上での誘導が大変な様子です。埠頭とは反対方向に走って内灘海岸まで出ると吹き流しが目に入り、何となく向かい風に逆らう気分で自動車道に乗りました。ここまで来ると車の流れはよく、明るい曇り空は目に優しく、しばらくは快適に走り続けることができました。このあたりから北の砂丘地は液状化が酷く、江戸時代にも同様の被害が記録されている地域で、地震の後も暫く流動化が止まらないと言われ、思うように復旧が進まないと聞いています。ただ、道路上から目につく被害が残されてはいません。羽咋あたりから道の傷み方が普通ではなくなり工事車両が増えてきました。路肩が崩れて車線が制限され、それに伴うアップダウンも多く、資材を満載した工事車両に挟まれて走ると時間もかかります。トイレと食事は気をつけろと言われましたが、その通り、サービスエリアも閉鎖されていると先を急ぐよりありません。復旧というにはまだまだですが何とか往路復路とも応急措置された道路はずっと穴水まで続き、次々と油断できないポイントが現れます。その先の様子が分からないので、災害時には避難場所にもなる能登空港で一休みすることにしました。空港の駐車場はそれなりに車が停められボランティアらしき人達が出入りしていました。みんな同じ方向に向かうのかと思ったら、輪島に向かう人が多いのか、珠洲に向かう道は空いていて速度をセーブして走る工事車両に追いついてしまいます。モタモタしながら珠洲に入り、道路脇に流木が積まれる間を突き抜けて、同業先輩の事務所が有った旧飯田駅を回ってから相談会場に向かいました。途中、旧珠洲駅にはプレハブ店舗に弁当屋さんがオープンしていて、なかなかの繁盛で昼飯の不安は取り越し苦労と分かりました。きっと、工事でこの地に入る人達にとって大事な場所だと思いました。翌日が国会議員選挙の投票所になるのか、会場は当初の珠洲市役所から珠洲商工会議所に変更され、港に近く玄関前の舗装が歪んだままの珠洲商工会議所には遅れることなく到着しました。近くにあるショッピングセンター「シーサイド」も芸術祭拠点「さいはてのキャバレー」も再開不能のところ、会議室の建物はきれいに整備され、相談来訪者には安心して来てもらうことができたようです。社会保険労務士の相談は少なく、土地や建物に関係する事案が多かったようです。ただ、企業に採用意欲はあり、避難先からの通勤は難しく、住まいのお世話までしようとすると空き部屋がなく、そのうち人が離れていく不安を抱えているようです。建設業者だと、自分で直して住むことを条件に貸りる手があるそうで、人が普通に住むことのできる家が足りないという現実をあらためて実感しました。
posted by 丹保社労士事務所 at 2024年11月01日
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生成AIでレジュメを点検
これまで十数年に亘り新入社員研修や従業員研修を開催していたことから、小松商工会議所さんからのお声掛けがあって、初めて「外国人材活用活躍セミナー」を企画する機会を頂きました。外国人雇用をテーマに三時間を充実させる話を一人でこなすのは難しく、しかし先を考えると避けてはいけない大事なテーマであり、迷いながらも大体のイメージは見えていたので引き受けることにしました。とにかく、自分一人では手の届かない領域だというのは明確で、技能実習の管理団体や外国人相手の日本語講師の人に助けてもらうという構想で、同業の社会保険労務士やかつての職場の同僚などに依頼して講師が決まりました。まず、セミナー企画の関心は現行「技能実習」から移行する新たな「育成就労」制度であり、更には家族滞在まで見据えた「特定技能」レベルの外国人の獲得定着と考え、社会保険労務士・行政書士であり金沢の管理団体の代表でもある新保則人さんに相談して、国内にいる時期が限られる条件を付けて快諾して頂きました。そして、技能実習生受け入れの成否のカギが日本語能力と通訳の質によるということを聴いているので、内灘で日本語講師をしている滝山瑞代さんにお願いしたところ、それなら小松にいるグラッシ徳子さんを紹介したいと連絡を受け、小松国際交流協会を訪ねてここで日本語講師をされているグラッシさんに引き受けてもらう事ができました。限られた時間のなか、お二人には豊富な経験も交えてリアリティのある講義を聞かせてもらいました。そして、私自身もセミナーの入り口の話をしなくてはならないので、基本的な法律適用は日本人労働者と変わらないこと、外国人には入管法や実習法による制限があること、日本語能力やキャリア形成など長期雇用を見据えた社内体制作りで差がでること、などをレジュメに盛り込みました。実は、レジュメを作った直後に「生成AI活用」セミナーを受講し、その事例の一つがセミナーのレジュメ生成だったのが面白く、自分の考えたレジュメとAIが作ったレジュメを見比べてみました。「外国人材活用活躍セミナー」「外国人雇用に向けた企業の基本的対応」がテーマのレジュメ作成を訊ねると、MSのCopilotは「セミナーの目的と概要」「セミナーの内容」「実務的なアドバイス」「参考資料とリソース」「まとめと次のステップ」と返し、図や表を使って視覚的に理解しやすくすることも勧めてきました。生成AIはアイデアを出したり視点を整理したり表現を変えたりするのが得意なのだそうで、使い方が分かるともっと効率よく面白い仕事ができることが分かりました。意外にも生成AIは計算業務や長文作成は苦手ということで、正確な情報を入手するより情報発信のサポートに利用するのが上手な使い方のようです。質問のポイントとして「立場」を入れて尋ねることが大事で、「優秀な社会保険労務士」としての回答を求めると立場が分からない場合と回答のレベルが変わるそうです。自分のレジュメと比べてみると、成功事例や失敗事例から具体的取り組みを学ぶという考えが入っていて、それなりに「使える」という感じです。自分のレジュメを全部読み込ませてアドバイスを求めるという使い方なら、今の自分にも無料の生成AIで簡単にできるので、これから時間のあるときに試してみようかと考えています。
posted by 丹保社労士事務所 at 2024年10月01日
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遠い雨の記憶
この前に雨が降ったのは一体いつのことだったか、思い出せないほど長く降っていないように思います。多分、ひと月ほど前のこと、もしかしたら夜だけ雨の音がしていた晩があったような記憶があるくらいです。雨の上がったあと、喉の痛みと咳が気になり熱っぽくなって受診したところ、暑い車内で待機して診察も受けずに検査を受けただけでコロナ感染が告知されて対処薬の処方が出され、そのまま走った薬局では薬剤師からコロナですかと尋ねられながら薬を待つうち喉が渇いてペットボトル一本を空けました。このあたりから雨の記憶がないのです。日中の草むしりには身の危険を感じるほどの暑さなのでこれは控えながらも、実家の水やりは間違いなく毎日続いたので、たっぷり雨が降るような日はずっと無かったと考えて間違いありません。会合の翌日に喉が痛くなり、タバコを吸う人がいたせいかもしれないと思ったのが始まりでした。二日目には長い話がし辛くなって少し咳払いするような感じで喉が酷くなり、そのあとは鼻水が出始めて体温は37度を超えて血圧も心拍数も急上昇したので近くのクリニックを受診しコロナと分かりました。私に続いて家族の感染もあって休みが続き、しかも今年はお盆休みの前に連休が組み込まれていたため、雨の降らないお盆の休みが明けても毎日の水やりが続きました。こんな風に書くと大変な作業をしているみたいに思われるかもしれませんが、時間にすると1日に10分か15分ほどの時間、それでも放ったらかしにすると茄子や南瓜はすぐに枯れてしまします。当たり前に陽射しは強く、水道の水は冷たく気持ちよく、わずかの時間に足はサンダルの形をきれいに写し、知らない人に足を見せると湿布剤を貼っているように思われます。そして不思議なのは雑草の強さで、お金を払って買った苗は一日で萎びて枯れてしまうのに、水を掛けていないはずの草がどんどんと茂ってエリアを拡大し続けています。熱中症予防とコロナ療養を大義名分に掲げて草むしりは出来るだけ避けて過ごしているものの、このまま放置していると先がどうなるか心配になり、日陰だけでも何とかしようと引き抜いたらプチプチと簡単に切れてしまうヤツやら、見かけは小さくてもしっかりと根を張って鎌を使ってズタズタにしても次の日には芽を出すヤツやら、水道代を心配しながら連日の水やりに加えて面倒くさそうに次の課題が出番を待っています。コロナでも体に合わせてできることもあると分かったので、何とか草むしりができたら、ジャガイモやタマネギぐらいは作れるようになってみたいものです。ここにきて台風のニュースが流れているので、壊れたままの雨樋や腰板を修理してもらい、まずは台風をやり過ごし秋の準備をしなくてはなりません。
posted by 丹保社労士事務所 at 2024年09月02日
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熊も水浴び
気温が上がり続けて蝉が鳴いているのに、夜になると雨が落ちて梅雨が明けず、いつの間にか学校の夏休みは二週目に入ってしまいました。雨と暑さで花壇の草は伸び放題に伸び生垣の木の枝は隙間なく繁ってしまい、お盆までに片付ける事が出来そうもないぐらいになっています。薩摩芋の苗を植え損ねたのと時々の雨のお陰で、今のところ親の家の背戸に植えた南瓜や茄子の水やりは楽をしていますが、草の伸び方が著しく、年を経る毎に草の種類と密度が増え続けて、水やりの序でに草をむしっていても追い付きそうにありません。年寄りはどのぐらいの時間を草むしりに費やしていたのか、自分の時間感覚では想像の限度を超えてしまいます。僅かの空き地に耕運機や草刈機でもないだろうと思いながら、眺めているうち日に日に草が繁ってきます。これに加えて自宅の玄関脇の小さな花壇も凄まじく、暑さに強く霜が降りる頃まで大丈夫と思っていたベゴニアが消え、花は弱まっても株が残っている筈のナデシコが枯れてしまい、グラジオラスの球根を植えただけで夏の花が他になく、この先、お盆を前に随分と寂しい花壇になりそうです。こんな中、お昼に気がついたらスマホにメールが入っていて、家の近くで熊の目撃情報があったとの連絡で、当面の外出は禁止自粛にするよりなく、その後の出没に注意して暮らすことになりました。実は、健康診断で運動不足を指摘され、週に何度かだけ帰宅後に町内を軽く歩いて一回りしていたのも直ちに中止です。晩ご飯を食べてから町内を歩いて気が付いたのですが、ここ何年かのうちに暗い道を歩いても、大通り沿いだと犬に吠えられることが全くなくなりました。犬より猫の人気が高いことは知っていても、小型犬の散歩が目立つことは知っていても、町内から夜の人影に吠える犬がいなくなるほどとは考えたことがありません。夜の散歩が静かになったのは、人間だけでなく、きっと熊にとっても気兼ねなく歩き回ることができる町内なのだと思いが及びました。小学生の目撃談ということながら、隣のムラから自分たちのムラに向かって走っていったというのは、やはりこの熊、犬がいないと察したところ只者ではないようです。そしてこの熊、これから先の消息が分かりません。大きな体で何日も潜み続けるほどの茂みもなく、カモシカのようにヤツデやアオキを好物にしていることもなく、涼を求めて用水を下り海岸まで辿り着くかと思科するところです。心配なのは山への帰り道で、手取川を静かに遡って誰にも迷惑かけることなく仲間のところに戻ってくれるかどうか、それまで私は夜間の外出が禁止です。
posted by 丹保社労士事務所 at 2024年08月03日
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カレンダーの先走り
温暖化のせいにしていいのか分かりませんが、これまでになく雨が少なく乾いた暑さの梅雨になって、夏至に日の暮れに一日の長さを感じました。白山に残る雪は例年の同じ時期と比べて明らかに少なく、夏の水は大丈夫だろうかと心配しながらも、植え付けが遅れたカボチャやネギに水遣りが欠かせない日が続きます。今年は梅雨入りが遅いだけでなく雨の降りも少なくお天気のいい週末が多かったこともあり、研究会のメンバーに付き合ってもらって、6月から7月にかけてわずか1ヶ月半ほどしかオープンする期間がない「白山高山植物園」まで一緒に行くことができました。自分の膝のコンディションからして、白山に登ってお花畑のあるあたりまで足を伸ばそうとすると、自力で下山できるかどうか考えると不安が大きく無理な気がします。そんなことを考えることのないこの高山植物園はお手頃でした。白山連峰を三ノ峰まで見渡す展望台の様になった駐車場から、足元にササユリやギンリョウソウが潜む遊歩道が設けられたブナ林を抜けて、ハクサンフウロやイブキトラノオそしてニッコウクスゲなど一斉に花を開く高山植物園に至るプチハイクはお天気に恵まれると思いがけず贅沢をした気分になります。この植物園、元々は桑畑として開発された土地だそうで、養蚕が廃れて桑の木も切り払われた跡地の見晴らしのよさもあり、この地に高山植物を植えることを考えたそうです。作家の高橋治さんや地元の人たち大学の植物学者など多くの人たちの想いと努力を積み重ね長い時間をかけて公開できるまでになったという説明でした。ご案内いただいたのは、この構想の立ち上げの初めから長く携わり今はNPOの事務局長をされている小高さんでした。気候変動が激しく絶滅も危惧される白山の高山植物を種子から採取して苗を育てて花を着けるまで、最初からうまく進んだわけでなく多くの失敗を重ね研究を続けた結果なのだそうです。そして何より自慢すべきは、日本ではこの白山の植生は屋久島に次ぐ豊かな植生を誇るもので、白山の植物を守り白山の豊かさを守ることに力を注ぐNPOの大きな意気込みを感じました。そして、昔から南加賀で「やま」といえば白山ですが、いま白山市はこの山と川を市民統合のシンボルとしての取り組みをすすめ、白山を囲む地域からそれぞれの魅力を引き出し、白山はジオパーク・エコパークの視点から世界に誇る山として私たちの価値観を引き揚げてくれるようです。
posted by 丹保社労士事務所 at 2024年07月15日
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